日本スポーツに存在する暴力 若者を不幸にする“恐怖政治”はいらない
2016/06/13
さて、本日は高校サッカー選手権の決勝というタイミングですが、大会の開催期間中である年始に見つけた記事を紹介します。
優勝しても罰走、生徒は使い捨て、自己満足の監督。高校サッカーの不都合な真実 | フットボールチャンネル
殴り続けた監督、現役Jリーガーも加害者の一人。暴力が横行する高校サッカーの部活動 | フットボールチャンネル
そしてもう一本。こちらはバレーボールですが、日本のスポーツに厳然と存在する「暴力」についての記事ですね。
バレーボール界の開拓者、ヨーコ・ゼッターランドが説く「規律」と「パワハラ」の区別 | web Sportiva
暴力を振るうことは“恐怖による支配”を生み出すだけ
昨今、中学校や高校の部活動での体罰がクローズアップされることが増えた時期もありましたが、やはり様々なスポーツにおいて暴力が存在しているのは間違いありません。比較して暴力からは遠いと言われていたサッカーでさえもこの始末。現役のJリーガーの中に暴力の加害者がいるという事実も、想像できていたことではありますが、あらためて字面にされると衝撃を受けざるを得ません。
「なぜ、言葉でなく暴力でしか指導ができないのでしょうか」
ヨーコ・ゼッターランド氏が語っていたこの言葉が印象的ですが、今のスポーツ界には、どの競技にかかわらず間違った常識が蔓延ってしまっている。どう見ても選手を“人間”として考えていないような扱い方もあれば、理不尽な暴力を加えることもある。ゼッターランド氏が味わったような政治圧力のようなものまで存在する。そうしたものが残っているのは、非常に残念と言うしかありません。
暴力を振るうことから何が生まれるかというと、それはスポーツの指導や教育的指導ではなくて、恐怖による支配なんですよね。スポーツ界の暴力についてを友人と議論したことがあったのですが、その友人は「暴力があることによって緊張感が生まれる」という言い方をしていました。そうした一面はあると思いますが、その緊張感は暴力で生み出すべきなのでしょうか?
暴力が背景にあってチームが団結したとしても、それは間違った解決法です。チームを団結させるのならば、別の方法でやるべき。暴力を振るう指導者や選手に、「なぜ暴力が必要なのか?」「暴力による支配から何が生まれるのか?」と問いかけたとして、説得力のある答えを出せる者はほとんどいないのではないでしょうか。それくらい間違った考え方というものが浸透してしまっている。
暴力を容認すれば、スポーツを志す若者を不幸にする
暴力を苦にスポーツを続けるのか、続けないのかという決断を、年端も行かない高校生が求められてしまう現状がある。ここで辞めなければいけないような状況に追い詰めてしまうと、その学生がその後スポーツを通して得られる学びも、あるいはその後に開花したかもしれない才能もすべて失われてしまう。
そうなるとその選手に残るのは、暴力を受けた事実とトラウマや記憶。場合によっては“部活を辞めた根性無し”というようなレッテルまで貼られてしまう。20歳にもならない若者が、間違った常識によってその後に大きなハンデを背負わされてしまう。
なぜ、スポーツをやりたい若者が暴力を受けなければいけないのか? スポーツをするのに暴力は必要なのか? 暴力を容認することで不幸になる若者が大勢いることを、日本のスポーツ界はもっと認識しなければいけません。
今の日本スポーツ界の常識は決して常識ではない、ということをこのブログで書き続けていますが、今のスポーツの常識というのは、戦後につくられたものなんですよね。今が「ポスト戦後」という時代なのであれば、やはり新たな価値観というのが必要になってくると思います。その価値観の中に、暴力から生まれる“恐怖政治”は一切必要ない。
暴力を振るうのではなく、適切な指導法で選手としても人間としても学生を指導できる。当たり前と言えば当たり前ではありますが、こうしたクリーンな環境で、日本の若者がスポーツをやっていけることを願ってやみません。