羽生選手の行為を美談で終わらせてはいけない ファンがやれること、やるべきこと
2016/06/14
8日(土)に行われたフィギュアスケートのグランプリシリーズ第3戦・中国杯での、羽生結弦選手の行為が議論になっています。
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今回話題の中心になっているのは、「羽生選手が負傷後に競技を続けるべきだったか(周囲が止めるべきだったか)」と「脳震盪の危険性」という二つでしょう。負傷を乗り越えて2位になった羽生選手の精神力は称賛に値しますが、私は何が何でも周囲が競技を止めさせるべきだったと思っています。
これまでも日本スポーツの間違った価値観を指摘してきましたが、日本人はとかく美談を好む。たとえそれが間違った価値観であったとしても、“困難を乗り越えた”だとか“負傷を押して”といったストーリーは持て囃されやすい。
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脳震盪というのは、頭部にダメージがあり一度起こすだけでも死の危険性があります。さらに上記の記事でも指摘されているようにセカンドインパクト・シンドロームの危険性がある。こうしたことを選手が理解・判断できず、周囲も止めることができないというのは、非常に危険な環境だと言っていいでしょう。スポーツ医学からしても、倫理的な観点からしても、競技を続行した羽生選手の判断は疑われるべきですし、続行させたコーチは非難されるべきです。
甲子園の記事でも書いたことがありますが、一体どこに、スポーツで命を危険にさらす必要があるのか? 私にとっては疑問でなりません。
困難を乗り越えたからこそ感動がある、という意見も目にします。ですが、それは選手の健康に責任を持たない、傍観者の立場だから言えること。そうした人たちは果たして、選手が命を落としても感動するのでしょうか? あるいは同じことが言えるのでしょうか? 今回の羽生選手の判断を称賛する意見があるとしたら、それは命をも厭わぬ危険を冒せ、と言っているように聞こえてなりません。
イングランド・プレミアリーグのチェルシーGKペトル・ツェフ選手のように、試合中に頭蓋骨骨折を経験した選手もいます。彼は幸運にして競技に復帰できましたが、復帰後はヘッドギアを着けなければ試合に出ることはできず、世界トップクラスと言われた才能もいくらか失われてしまった。ただ、才能が失われるだけなら命を落とすよりもまだ安いかもしれません。
見ているだけの立場から言うのは簡単ですし、選手の判断に口出しできる立場ではないという意見もあると思います。ですが、観客たるファンがやれること、やるべきことは、正しい知識と価値観を身に付け、競技者や指導者に正しく声を届けるということではないでしょうか。
今回の羽生選手の件を美談で終わらせれば、同じ悲劇は必ず繰り返されます。それが繰り返された時、当事者となった選手の意識はもう戻らないかもしれません。