リオ五輪から見える選手への敬意と文化
リオデジャネイロ五輪もいよいよ佳境。時差とお盆休みを利用して中継を観まくっているのですが、スポーツが好きな人間にとってはたまらない2週間強ですね。この期間中はスポーツビジネスについても話題が少なく、気付けば2週間も更新を空けていました…。
更新するためにブログをやっている訳ではないので、これで良いと言えば良いのですが、五輪を観ていて思うことがあり。ここ最近はスポーツビジネスについてを中心に書いていましたが、ちょっと趣向を変えて書いてみます。
リオ五輪で見える選手への“敬意”の問題
今回の大会でチラチラと目に付くのは、選手への“敬意”に関する認識です。卓球の男子シングルスで銅メダルを獲得した際の、水谷準選手の見せたガッツポーズが話題になっています。
私としては、ガッツポーズを含めた選手のパフォーマンスも競技の一部であると思っているので、水谷選手の意見を支持します。その他にもタレントの武井壮さんなど支持派の意見が多いですし、水谷選手も試合後の握手はしているので相手選手への礼節を欠いていた訳ではありません。それに、そうしたパフォーマンスのほとんどは喜びを表現するもので、相手を貶めるためのものではないんですよね。
その他にも印象に残る記事を挙げていきます。
あるいは、リオ五輪ではないですが、MLBで3000安打を達成したイチロー選手への称賛も。
いずれも日本のチームや選手を讃える内容ですが、こうした称賛の声は国内からの方が少ない印象です。日本と海外での価値観やスポーツマンシップの違いや、柔道のように銀メダルや銅メダルでは納得してもらえない、という違いもあるのだとは思いますが、スポーツに対する考え方はやはり欧米の方が完成されているように思います。
スポーツ選手の競技寿命は儚く尊い プロセスにももう少しだけ目を向ける
常々思いますが、スポーツ選手が競技を続けられる時間というのは実に儚いものです。ゴルフのように現役を長く続けられる競技もありますが、身体を駆使して、かつ酷使してトップレベルを永遠に維持できるスポーツというのは有り得ない。イチロー選手や三浦知良選手が現役でプレーしているのも、常人を超えたストイックさの賜物でしょう。
それに、今やっているCMではありませんが、五輪は4年に一度ではなく一生に一度なんですよね。全く努力をしないで五輪の舞台に辿り着いた選手なんていない。それこそ水谷選手が「命を懸けている」と語っているように、目標とする大会へ向けて並ではないトレーニングやそれに伴う努力を続けてきた結果として、このリオ五輪があるのでしょう。
個人的には、もっとそうしたところを評価して欲しいと思っています。努力をしたから必ず報われるのではないし、努力しているんだから礼賛しろということでも美談にしたいのでもありません。ただ、才能と身体を消費している尊さにもっと敬意が払われて欲しい。プロセスの段階にもう少しだけ目が向いてもいいのではないか、と考えます。
欧米からの日本スポーツや選手への評価というのは、プロセスについてもきちんと知っていてのことです。それに対して日本は結果を重視し過ぎてしまっている。そんな考え方の違いが透けて見えるのが、今回のリオ五輪ではないでしょうか。
「終わりよければ全てよし」というのは、日本の美徳かもしれません。それでもプロセスに目を向けることによって、スポーツや選手に対する理解は深まる。そこから日本のスポーツ文化が深まっていくのだと思います。