旧体質なスポーツ界の“常識”に一石を投じる、芦屋学園のプロジェクト
2016/06/13
もう1週間以上前に出た話ですが、高校野球やプロ野球に関連して大きな話題がありましたので、このブログでも紹介します。
甲子園目指さずプロ目指すこと徹底の芦屋学園野球部 利点複数 | NEWSポストセブン
高野連に喧嘩を売った芦屋学園の画期的な取り組み | Yahoo! ニュース
芦屋学園スポーツモダニズムプロジェクト − 従来の仕組みとは異なる取り組み
この動きは、芦屋学園が附属の大学から中学校までの10年間で、一貫した指導システムを導入している中の一環。芦屋学園高校の野球部は高野連に所属せず、従来とは違うルートでのプロ野球選手輩出を目指すというものです。この芦屋学園の取り組みというのは、従来の日本のスポーツの仕組みとは大きく異なるものです。上記にリンクを貼った記事タイトルの「喧嘩を売った」という表現にみられるように、これまでの常識を覆すほどのインパクトがあると思います。
今までは、プロ野球を目指そうとするなら、強豪校に進学して甲子園を目指すしかルートがなかった。そこでプロになれなければ大学や社会人野球というルートもありますが、とはいえそれも高校野球を経由してのこと。プロ野球選手になるためには、選択できるルートは選択肢がほぼなかったのです。
この“常識”によって甲子園は伝統を築き、権威を集めてきましたが、その権威と伝統によって生まれている様々な弊害が近年指摘されているのも事実です。夏の甲子園であれば、熱中症で死の危険性もある環境下で試合をさせられ、あるいはエースピッチャーが連投を強いられる。そうして18歳にしかならない高校生たちの身体が酷使されている。部活を引退するまでに大きな怪我を負ってしまえば、スポーツ推薦で入学した生徒は部活を追われるどころか、学校まで辞めなければいけない可能性すらある。
スポーツ界に蔓延る“常識”から学生を解放するプロジェクト
私もこのブログで書いてきたことが何度かありますが、果たしてこうした“常識”というのは正しいのか? 日本のスポーツは、特に高校のカテゴリーで教育、権威、伝統と深く結びついてきましたが、甲子園を目指すことや、サッカーであれば冬の選手権を目指すことが学生にとっての唯一の選択肢であるべきでしょうか? これは今一度考えなければならない“常識”だと思います。
トーナメントを勝ち抜くための極端な結果至上主義。教員指導者からの体罰。先輩後輩の上下関係から強要される暴力。こうしていわゆる体育会系が生まれていく訳ですが、生み出される背景にある現象も見つめ直さなければいけません。極端なやり方で学生が心をすり減らし、身体を酷使。方法論は一つだけではないのに、骨身を削ることが“心や身体を鍛えること”と同義になってしまっている。私には、こうして蔓延っている“常識”が正しいとはどうしても思えないのです。
そうした意味で、芦屋学園が旧体質の高野連に所属しない、というのは本当に画期的なことだと思います。プロを指向する選手はそこへ向けてトレーニングを積める環境にあるし、たとえ挫折しても学園がセーフティネットを用意している。プロ選手になるための別ルートを提唱し、「野球がうまくなければ落第」というような論理から学生を解放できる。スポーツ面でも教育面でも、従来にはない様々なメリットを学生が享受できるプロジェクトなのではないかと思います。
この芦屋学園スポーツモダニズムプロジェクトが成功するかはこれから次第ですが、個人的に注目していきたいと思います。こちらのBLOGOSの記事にあるように、「喧嘩を売った」というのは少々大げさな気もしていますが、従来の常識に囚われた日本のスポーツ界に一石を投じて欲しいと思います。
従来の常識に従わず、大胆に新たな取り組みをする。Jリーグが創設された頃もそうでしたが、こうして地平が開け、世界が変わっていくのだと思います。